2015年11月29日

“武力がもたらす平和は、墓場の平和です” (N氏)



死の商人が拍手。 復讐戦に拍手している。

このような書き出しのメッセージが届きました。

上の言葉を痛烈な批判の言葉として聞きますか?
それとも素直に聴き止めるべき言葉と受け入れますか?

私は、素直に聴き止めるべき言葉だと思っています。

Nさんは、後期高齢者になったばかりだそうですから、
戦争の悲惨さを味わっていると思います。

Nさんは子どもの頃とはいえ、小学中学時代は、
まだまだ戦後の荒廃した日本を
鮮明に記憶されていることでしょう。

そのような戦中、戦後の日本を知るNさんが、
安倍政権の暴走が危険であることを
直感的にも、手続き的にも、危険な政権だと
危惧しているのです。

戦争は、ウソと欺瞞で塗り固めた情報操作により、
作られます。

そしていつも殺し殺されるのは罪もない無辜の民です。
攻撃された国の国民、攻撃した国の国民(兵士も)同様です。

国家のリーダーは、会社でいえば社長、或いは管理職です。
顧客、社員に損害を与えた場合は退場して頂かねばなりません。

いま安倍政権は国民にとって、
損害が余りに大きいのではないでしょうか?
一日も早くお引き取り頂きましょう。

ナガサキ、ヒロシマを経験している日本人ならではの
恒久平和を目指した外交をしなければなりません。

武器弾薬で稼いでも虚しいことばかりです。

Nさんのメッセージをじっくりお読み頂きたいと思います。
転載します。

(転載)
死の商人が拍手。 復讐戦に拍手している。
空爆の費用。
一回につき最も簡単な戦闘機2機編隊で
レーザー誘導爆弾等による空爆の場合、3000万円。 
人殺しのために必要とする。
マスコミも政府の要人も、
愛国心を鼓舞し、国歌を歌っている。

ベトナム戦争で、日本の若者が歌った。

  坊や静かにおやすみ 私の坊や
   来る日も来る日も いくさが続く
   坊や大きくならないで
   そっと眠りなさい
   花はどこへ行った?若い乙女が摘んでいった
   若い乙女はどこへ?若い青年の下へ行った
   若い青年はどこへ?兵隊としていってしまった
   兵隊はどこへ?墓地へ行ってしまった
   墓地はどこへ?花の元へ行った
   野に咲く花の名前は知らないだけども野に咲く花が好き
   ぼうしにいっぱいつみゆけばなぜか涙が 涙が出るの
   戦争の日を何も知らないだけど私に父はいない

戦争の背後にいつもいるのは、アメリカとその同盟国。

大国の野心に押しつぶされ、
人々は殺されるジャングルのベトナムが終わったら、
砂漠の土地、イラク、シリア。

人殺しばかりしてきたアメリカ。(N)

「わたしの非暴力」(ガンジー著 森本達雄訳)みすず書房より

「卑怯か暴力のどちらかを選ぶ以外に道がないならば、
私は暴力をすすめるだろうと信じています。
けれども私は、非暴力ははるかに暴力にまさることを、
敵を赦すことは敵を罰するより雄々しいことを、
信じているのです。」
 
「侵略者の暴力に暴力をもって応えるようなことはせず、
侵略者の不法な要求には、死を賭しても服従を拒否する、
それが非暴力の本当の意味です」。

「赦しは勇者の資質であって、臆病者のそれではありません」。

「怒りには愛をもって応え、暴力には非暴力をもって応えるという、
永遠の法(のり)をよみがえらせることが肝要なのです」。

「暴力が獣類の法であるように、非暴力は人類の法です。
・・・人間の尊厳は、より高い法に、
すなわち精神の力に従うことを要求します」。

「非暴力は、臆病をごまかす隠れ蓑ではなく、勇者の最高の美徳です。
非暴力を行なうには、剣士よりはるかに大きな勇気が必要です。
臆病は、非暴力と全く相容れません」。

「復讐もまた弱さです。復讐の願いは、想像上の、
あるいは実際上の危害への恐怖心から生じるのです。
犬はこわがると、吠えたり噛みついたりするものです。
地上の何者をも恐れない人は、
彼を傷つけようとつまらぬ骨折りをしている者に対して、
怒りの念を呼び起こすことすら煩わしい、と思うでしょう。
天は、自分に向かって土を投げつける子どもたちに仕返しはしません。
子どもたちは、自らの行為によって自らを汚すだけです」。

「(暴力を受けたり辱めを受けても)もし彼らが、
心に報復の気持ちさえ感じずに、
その恥辱に耐えるだけの勇気を持っていたならば、
彼らは少しも傷ついてはいません」。

「非暴力の目的とするところは、つねに相手の内に、
最もよいものを呼び覚ますことです。
受難は、相手の善性に訴える力を持っています」。

「剣を保持しようと望むうちは、
人は完全な勇気に到達したためしはありません。
みなさんが非暴力の剣で武装するとき、
地上のどんな権力もみなさんを征服することはできません。
非暴力は、勝利者をも敗北者をも高めます」。

「武器は、人間の強さではなく、弱さのしるしなのです」。

「非暴力は神への生きた信仰なくしては不可能です。
非暴力の人は、神の力と恵みによらずには何事も成し得ません。
信仰がなければ、怒りをいだかず、恐怖をいだかず、
復讐心をいだかずに死ぬ勇気は持てないでしょう。
非暴力は、"神はすべての人の心の中に宿りたもう。
それゆえに神のいますところに恐れはない" 
という信念から生まれるのです」。

「神を畏れる者にとっては、死は恐怖ではありません。
勇気は殺すことにあるのではなく、死ぬことにあります。
人を殺さずに死ぬためには、よりいっそうの英雄心が必要です」。

「わたしは次のような、絶対的信仰を持っています。
人類は非暴力によってのみ救われる、ということです。
そしてこれは、私が聖書を理解するかぎりにおいて、
聖書の中心的な教えです」。

「キリスト教徒は、精神力をもって物質の力に対応できなければならない、と今も考えております。
キリストの福音から1900年もたっているというのに、
個人の場合や小規模なグループを除いて、
いまだにそれが実現できないというのは、
考えるだけでも空恐ろしいことです」。

「武力がもたらす平和は、墓場の平和です」。









2015年11月28日

「不毛な県政バトル!」から見えるもの


(浦和駅西口の様子:11月22日)
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先日22日の県政報告会で報告されたこと。
パワーポイントで映しだされた表をみて驚きました。

国政と真逆の構図だったのです。

地方県政を担う知事の政策が国政とは真逆に、
野党席を占める自公政党に、
数の力でブレーキをかけられているのです。

国政では安倍自公政権が憲法違反の安保法制を、
ごり押ししてまで成立させてしまいましたが、
地方議会では野党席の自公がストップ役に徹しているのです。

有権者、国民県民から見ると政策が有権者に、
有利な政策ならば成立させてもらいたいと思います。

選挙公約として、有権者に約束したことかどうか?
或いは、実際に必要なものかどうかを吟味して、
政策論争するのは当然なことです。

しかし権力を取った者が別の政党だからと、
議会に提出された政策を何が何でも反対だ、
気に入らないからと時間稼ぎのために、
精一杯の邪魔(抵抗)をしているのは頂けません。

以上のことが報告から、明らかになりました。

しかし、これらのことはマスコミでは、
“県議会 紛糾” としてしか報道されないのでしょう。

中でも腹立たしいのは、議員の費用弁償(議員の旅費)を、
実費支給にする議案が自公の反対で否決されたというのです。
現在でも渡し切りの費用だというのです。

それも議員報酬とは別に月額50万円です。

さらに議会費用弁償についても遠隔地からの交通費として、
添付写真のように減額しても、一日当たり、
10キロ未満で6,000円、50キロ未満で8,100円、
50キロ以上で10,200円にもなっています。

私の地元の公明党県議も最初の県議選出馬時には、
月額50万円の政務調査費は不要です!
・・・と訴えていました。
それで当選しました。

その後、本人に尋ねたことがありました。
すると本人は、実費精算していますと仰っていましたが、
これは議会で通らなかった!・・・と弁解に聞こえます。

現在でさえ、自公が反対して、
実費支給になっていないということは、
その公明党県議も含めて議員は、
遍く受け取っているということなのではないでしょうか。

このような現状を知らされても有権者が怒らないのは、
本当におかしいことなのです。

これでは “改革” という言葉を掲げられると、
なにか言葉に酔ってしまい、それに靡いて、
当選した暁には、議員に裏切られるだけです。

さらに議員が途中で挫折しても支援もせず、
誰がやっても同じと諦めてしまうのです。

これが一番ダメなところです。

利益に与かる既得権に縋りつく、議員たちがいる限り、
政治家は信頼するにあたらない存在なのでしょうか?

それとも昨日の植草一秀さんがブログで指摘しているように、
怒りを忘れ権力に擦り寄る国民性が為せる業なのでしょうか。

総背番号制で縛られるのではなく、
主権者国民が国家と議会を監視するのが本筋です。

(県議会 会派別構成)
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(県議会の後進性)
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(議員費用弁償について)
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posted by toshi at 16:45| 埼玉 ☔| Comment(0) | 県議会、権力、既得権、議員費用 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

愚かな政治を許しているのは私たち



植草一秀氏の『知られざる真実』ブログの昨日27日の記事
 「愚かな国民が愚かな政治を作る現実を見つめよう」 で、
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-41cb.html

愚かな政治を作ってきた原因が、
日本人の国民性にあることをズバリ指摘しています。

日本の政治がいつも煮え切らない状況で終わっているのは、
私たちの責任だったのです。

終戦直後にも戦争責任追及はGHQの手に委ねられました。
国民自ら戦争責任を追及して来なかったのです。
政治家だけの責任ではなかったのです。

本来、戦争で被害を蒙った国民が追及すべきだったのですが、
これが出来なかった別の原因があったのです。

実際に戦争に反対した人が少なからず、居たのですが、
その人たちを非国民扱いにして、非難、虐待した中には、
権力に阿った普通の国民もいました。

権力、体制に寄りかかる自立できない国民がいたのです。

それは権力者には真に都合がいいのですが、
是では独裁国家と何処が違うのでしょうか?

これでは北朝鮮を非難するどころではありません。

植草一秀氏は、
「日本が変わるには、日本の主権者が変わる必要がある。」と、
私たち主権者の責任と義務を明らかにしてくれます。

しかも社会の公平性、公正性、真の民主主義を求めて、
行動してきた人たちが、もうだめだ!
・・・と諦めてしまうことは、
既得権益層にとっては、願ってもないことです。

不公正の誹りを受けても、既得権益を死守していくことが、
権力者側の意図するところですから、
簡単に諦めてしまうことは、勿論、ご法度です。

たった一回の選挙で変わるほど政権交代は、
簡単なことではありません。

ですから政権交代して、真の民主主義を勝ち取るまで、
数度の選挙を経ても、勝ち取るまでやり抜くしかないのです。

反省を忘れた国民は、奴隷に甘んじなくてはなりませんが、
植草一秀さんは、権力者ばかりではなく、
よくぞ私たち国民の弱さも指摘してくれたと思います。

植草一秀さんの『知られざる真実』ブログを
是非、お読みください。

(転載)
日本が変わるには、日本の主権者が変わる必要がある。
第2次大戦で日本は敗戦した。
皇国の国から民主主義の国に変わった。
戦争を推進していた人々は教科書を黒塗りにして民主主義を唱え始めた。
戦争責任者の責任が問われることになったが、戦争責任は曖昧に処理された。
国民は、基本的には戦争指導者によって騙された存在ということにされたが、
国民の責任も問われることはなかった。
戦争推進に加担した勢力のうち、
もっとも強い影響力を発揮したのはメディアだったが、
メディアもその責任を明らかにすることはなかった。
しかし、あの戦争中にも、
戦争推進に抗った人々が、少なからず存在した。
しかし、その、正しかった人々を虐げ、
攻撃したのは、戦争指導者だけではなかったはずだ。
一般の国民も、そのような少数者を虐待し、攻撃したのである。
過去を振り返り、本当の意味での誤りを見つめ、
その誤りがどのように表れたのかを吟味することなく、
真の反省はあり得ない。
反省は行われず、当然のことながら、責任の処理も行われない。
一般国民は、単に「騙されていた」ということにされて、
免罪されてきたのである。
だから、その体質はいまも、何ひとつ変わっていない。
人々は、常に、権力の側に我が身を置こうとする。
権力から睨まれる存在にはなりたくないのだ。
誰が何を言っているのか、誰が何をどのように考えているのかを、
真剣に考えることを忌避する。
ものを考えるのではなく、ただひたすら、
安全に見える場所に我が身を置こうとする。
それだけのことである。
まれに、ものごとを考える人がいる。
ものごとを考え、発言し、行動する人がいる。
そのときに、そのような少数派の人々の言葉、
行動をよく知ろうとはぜず、ただ単に、
権力に歯向かう危険な存在であると認識して、
関わることを拒絶する。
このような人々が、
大半を占めてしまっているのではないだろうか。
(以降、略)