死の商人が拍手。 復讐戦に拍手している。
このような書き出しのメッセージが届きました。
上の言葉を痛烈な批判の言葉として聞きますか?
それとも素直に聴き止めるべき言葉と受け入れますか?
私は、素直に聴き止めるべき言葉だと思っています。
Nさんは、後期高齢者になったばかりだそうですから、
戦争の悲惨さを味わっていると思います。
Nさんは子どもの頃とはいえ、小学中学時代は、
まだまだ戦後の荒廃した日本を
鮮明に記憶されていることでしょう。
そのような戦中、戦後の日本を知るNさんが、
安倍政権の暴走が危険であることを
直感的にも、手続き的にも、危険な政権だと
危惧しているのです。
戦争は、ウソと欺瞞で塗り固めた情報操作により、
作られます。
そしていつも殺し殺されるのは罪もない無辜の民です。
攻撃された国の国民、攻撃した国の国民(兵士も)同様です。
国家のリーダーは、会社でいえば社長、或いは管理職です。
顧客、社員に損害を与えた場合は退場して頂かねばなりません。
いま安倍政権は国民にとって、
損害が余りに大きいのではないでしょうか?
一日も早くお引き取り頂きましょう。
ナガサキ、ヒロシマを経験している日本人ならではの
恒久平和を目指した外交をしなければなりません。
武器弾薬で稼いでも虚しいことばかりです。
Nさんのメッセージをじっくりお読み頂きたいと思います。
転載します。
(転載)
死の商人が拍手。 復讐戦に拍手している。
空爆の費用。
一回につき最も簡単な戦闘機2機編隊で
レーザー誘導爆弾等による空爆の場合、3000万円。
人殺しのために必要とする。
マスコミも政府の要人も、
愛国心を鼓舞し、国歌を歌っている。
ベトナム戦争で、日本の若者が歌った。
坊や静かにおやすみ 私の坊や
来る日も来る日も いくさが続く
坊や大きくならないで
そっと眠りなさい
花はどこへ行った?若い乙女が摘んでいった
若い乙女はどこへ?若い青年の下へ行った
若い青年はどこへ?兵隊としていってしまった
兵隊はどこへ?墓地へ行ってしまった
墓地はどこへ?花の元へ行った
野に咲く花の名前は知らないだけども野に咲く花が好き
ぼうしにいっぱいつみゆけばなぜか涙が 涙が出るの
戦争の日を何も知らないだけど私に父はいない
戦争の背後にいつもいるのは、アメリカとその同盟国。
大国の野心に押しつぶされ、
人々は殺されるジャングルのベトナムが終わったら、
砂漠の土地、イラク、シリア。
人殺しばかりしてきたアメリカ。(N)
「わたしの非暴力」(ガンジー著 森本達雄訳)みすず書房より
「卑怯か暴力のどちらかを選ぶ以外に道がないならば、
私は暴力をすすめるだろうと信じています。
けれども私は、非暴力ははるかに暴力にまさることを、
敵を赦すことは敵を罰するより雄々しいことを、
信じているのです。」
「侵略者の暴力に暴力をもって応えるようなことはせず、
侵略者の不法な要求には、死を賭しても服従を拒否する、
それが非暴力の本当の意味です」。
「赦しは勇者の資質であって、臆病者のそれではありません」。
「怒りには愛をもって応え、暴力には非暴力をもって応えるという、
永遠の法(のり)をよみがえらせることが肝要なのです」。
「暴力が獣類の法であるように、非暴力は人類の法です。
・・・人間の尊厳は、より高い法に、
すなわち精神の力に従うことを要求します」。
「非暴力は、臆病をごまかす隠れ蓑ではなく、勇者の最高の美徳です。
非暴力を行なうには、剣士よりはるかに大きな勇気が必要です。
臆病は、非暴力と全く相容れません」。
「復讐もまた弱さです。復讐の願いは、想像上の、
あるいは実際上の危害への恐怖心から生じるのです。
犬はこわがると、吠えたり噛みついたりするものです。
地上の何者をも恐れない人は、
彼を傷つけようとつまらぬ骨折りをしている者に対して、
怒りの念を呼び起こすことすら煩わしい、と思うでしょう。
天は、自分に向かって土を投げつける子どもたちに仕返しはしません。
子どもたちは、自らの行為によって自らを汚すだけです」。
「(暴力を受けたり辱めを受けても)もし彼らが、
心に報復の気持ちさえ感じずに、
その恥辱に耐えるだけの勇気を持っていたならば、
彼らは少しも傷ついてはいません」。
「非暴力の目的とするところは、つねに相手の内に、
最もよいものを呼び覚ますことです。
受難は、相手の善性に訴える力を持っています」。
「剣を保持しようと望むうちは、
人は完全な勇気に到達したためしはありません。
みなさんが非暴力の剣で武装するとき、
地上のどんな権力もみなさんを征服することはできません。
非暴力は、勝利者をも敗北者をも高めます」。
「武器は、人間の強さではなく、弱さのしるしなのです」。
「非暴力は神への生きた信仰なくしては不可能です。
非暴力の人は、神の力と恵みによらずには何事も成し得ません。
信仰がなければ、怒りをいだかず、恐怖をいだかず、
復讐心をいだかずに死ぬ勇気は持てないでしょう。
非暴力は、"神はすべての人の心の中に宿りたもう。
それゆえに神のいますところに恐れはない"
という信念から生まれるのです」。
「神を畏れる者にとっては、死は恐怖ではありません。
勇気は殺すことにあるのではなく、死ぬことにあります。
人を殺さずに死ぬためには、よりいっそうの英雄心が必要です」。
「わたしは次のような、絶対的信仰を持っています。
人類は非暴力によってのみ救われる、ということです。
そしてこれは、私が聖書を理解するかぎりにおいて、
聖書の中心的な教えです」。
「キリスト教徒は、精神力をもって物質の力に対応できなければならない、と今も考えております。
キリストの福音から1900年もたっているというのに、
個人の場合や小規模なグループを除いて、
いまだにそれが実現できないというのは、
考えるだけでも空恐ろしいことです」。
「武力がもたらす平和は、墓場の平和です」。